平成22年度入学式の「学長告辞(要約)」を掲載しました
平成22年度の大学・短大・大学院の入学式が、4月3日(土)に挙行されました。
つきましては当日の山内学長の「学長告辞」(要約)を掲載いたします。
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新入生諸君ご入学おめでとうございます。
現在日本で、一人の子供を大学に進学させるための経済的負担は大変なことと察し、その中で、旭川大学の理念と教育に信頼をお寄せ頂き、保護者の皆様にはこうしてお子様を入学させて頂き誠にありがとうございます。
旭川大学学長として、本学の理念と教育目標の元に、新入生の自己実現への道を全力を挙げて支援していくことをお誓い申し上げます。
またご来賓におかれましては、本学の日ごろの教育活動に、熱心にご支援・ご声援を頂いておりますことに深く感謝申し上げます。
旭川は今年開基120年になります。はじめに先住民族アイヌの人たちの豊かなコタンがありまして、その開基のときの人口は5,000人ほどだったと言われています。それから10年ほど後の明治31年、旭川裁縫専門学校という、塾のような女子教育の裁縫学校が誕生し、創られたのは澤井兵次郎さんという方でした。
大学のルーツをずっと辿ると、開村間もない旭川に一つの塾を創り、女子の人生に手に裁縫という技術をつけることにより自立を促そうとした、いにしえの教育家の姿が浮かび上がって来ます。ルーツがそこにあることを、私どもは誇りにしております。
本学はそれ以来理念を、「地域に根ざし、地域を拓き、地域に開かれた大学」とし、地域のオンリーワン大学として、いまここに確かな歩みを続けています。
この「地域」ということの意味については、これから様々な講義などで色々と耳にすると思いますが、私どもは地域というものを、どういう風に振返り再活性し、再創造していくか、ということ。その地域には豊かな生活共同体があり、その生活共同体というのが今、危機にあるという認識のもとに、大学を運営しています。
地方の根が枯れて来ていますが、これはそこに住む人々の多様な生活がもたらした文化の、相互交流が無くなるということです。
今の日本はどんどん地方の根が枯れて来ており、いかに幹と葉を茂らせても、そこに花は咲かないという状況があり、そのなかで本学は、地域を理念として、地域にこだわっています。
私が本学に奉職した時に一人の農業経済学者、広澤吉平先生という教授がおられました。「この上川・旭川は、もともと米が取れないところだが(お米は南の作物だから無理なわけです)、旭川・北海道の農民は、少ない夏の暑さを圧縮して捉えることによってお米を作ることに行き着いた。このことによって上川100万石という、"北海道の米"というものを作り上げた」と聞かされ、これは非常に示唆に富んだ話であり、それは言うまでもなく大雪山系の雪と、石狩川の水系がもたらした本当に美しい、人間と人間の労働そして、自然の恵みとの見事なコラボレーションと捕らえることができました。
さて今年の新入生は、一番遠いところでは徳島県阿波町、外国では韓国・中国・ネパールなどから迎えています。旭川大学は地域に開かれて、地域をずーっと掘っていくと、それは世界にもつながっています。当然地球の運命と、地球に共に生きる市民(韓国もネパールも)も皆私たちと同じ、このガイアの中に生まれ、同時代を生きる友人たちと言えるでしょう。
本学の先生方は情熱と愛情と忍耐を持って、この世界中から来た皆さんと、正面から付き合いたいと思っています。
大学というところには、皆さんにとって3つの意味があります。
コラム No.018 ”地域塾としての旭川大学”
そこは数知れぬ人々の想いが交錯した大きなコミュニティであった。
「How Green Was My Valley(我が谷は緑なりき)」ジョン・フォードが作った名作である。
ウェールズの炭坑町を描いたこの映画はモノクロながら瑞々しい緑が光っていた。私は、もう25年も前、夕張に講演に行き清水沢の入口でこれと同文のアーチをくぐったときの嬉しさを忘れることが出来ない。
一体誰がこの雪崩を打ちそうな地域崩壊を食い止めることができるのだろうか?
旭川大学は「地域に根ざし、地域を拓き、地域に開かれた大学」であることを理念としている。経済学部(経営経済学科)、保健福祉学部(コミュニティー福祉学科、保健看護学科)はその具現化につとめている。「地域研究所」を有し、今大学院を「地域政策専攻」としてこの難問に院生と共に取り組んでいる。そしてその成果も着実に報告されつつある。しかしそれは単なる実践的報告ではありえない。"価値関心-精密な現状分析-問題の発見とその原因-解決のための処方箋-政策化とその隘路-実践主体と条件整備"といった方法意識が絶えず求められ、科学的認識の構成要素が反映されてゆくことが意識される。
今学際的研究の重要な磁場の一つは"地域"にある。今地域研究というものが求められるのは、グローバリズムの下に「世界は持続可能なのか?」という最大公約数の問いかけの解答が、人間の生活の営みの原点として地域に向かっているからに他ならない。
少子高齢化といい、国際化といい、情報化という。これらの諸課題は、必ず一つの地域を通して発現する。その根底には、家族を中心とする生活共同体が危機にさらされているからである。片方に「村を捨てる大学」があれば「村を育てる大学」がなければならない。
旭川大学は「山は大雪、川は石狩、地域に輝くオンリーワン大学」である。
〖大学前庭のナナカマドが紅葉しています〗
コラム No.017 ようこそ旭川大学へ
旭川大学は昨年、40周年、女子短期大学部は45周年、大学院は10周年を迎えた。
その記念行事の一つとして「五木寛之講演会」を催した。五木さんは私が解説を書かせていただいた彼の直木賞受賞作「蒼ざめた馬を見よ」の新装版文春文庫を1100冊買い切って聴衆の皆さんにプレゼントするという美しい心配りをして下さり、この未熟な学長は人生の喜びに浸ったのである。それは学生時代出会った小説から始まった。
君達は五木寛之の「青春の門」という小説を読んだことがあるだろうか?あるいはその名を聞いたことがあるだろうか?
映画にもTVドラマにもなったことのあるこの本は、30年以上にも亘るロングセラーであった。私はこれを時に旅の途中で素っ飛ばし気味に読んだり、時に4畳半にも満たぬアパートで、全世界が敵に見えたりした時など舐めるように読んだりしたものだった。今も折にふれて手に取ることがある。とにかく面白いからである。
この大河小説は、「筑豊篇」「自立篇」「放浪篇」「堕落篇」「望郷篇」「再起篇」から成り、未だ完結していない。
その「自立篇」で大学生活を始めた主人公、伊吹信介は言う。「おれは人間たちとつき合いにきたのだ。おれは自分と同じ世代の若い連中と出会い、世の中のしくみを眺め、そしてそのなかで自分をどう生きていけばいいのかを求めるためにやってきたのだ、それだけだ」と。これほどストレートな個々の人生と大学との出逢いの意義を語った言葉を知らない。
友を得るという形で関係の中に身を入れ、自分と自分を取り巻く環境の総体を学び、そこから何かを把んで生きてゆく覚悟を決めるということであろう。
そして歩き出してふと彼はいう。「人間はすこしずつ変わるのではなくて、どこか竹の節のようにジャンプするところがあるんじゃないでしょうか。いまぼくはその竹の節にかかっているところかもしれません」と。
そうです。いかに現在「青春」ということばが死語になりつつある、といわれようと青春という季節はジャンプする季節であり、大学はその竹の節目のステージなのだ。
旭川大学は、性、国籍、年令、階層を超えて歩き出そうとするすべての者に竹の節目のステージを用意している。新しい出会いを待っている。
コラム No.016 2008年度卒業生に愛をこめて~part.Ⅱ
いまは春、いまこの憂い
-未完の肖像に寄す-
<白き冬かく愛せしにいまは春いまこの憂い
耐えがたきかな-アンナ・アフマートワ>
私の同時代を生きてきた友人のロシア文学者にして詩人の工藤正広さんが、すごい仕事を出版した。
それは、ソ連時代のロシア詩人アンナ・アフマートワの詩を日本の短歌の形で訳詩するというものである。
言葉というものの喚起力を知り尽くした者で、しかも未だその限りなき荒野を歩き続けねばならぬ徒労とも希望ともつかぬ己れの宿業をつぶやきながらの詩人(うたびと)の詩魂がなせる仕事である。
その中から巻頭の一首をいまこの春、この旭川大学の、この生涯学習クラスを卒業してゆく皆さんに贈る気になったのは多分に私の感傷である。
夜6時10分から始まる授業に食事もとらずに駆け込む日々。
食事をとると眠気がくるといけないという・・・。
未だ夏の陽だまりの明るさもあれば真っ暗な、それこそ白き冬の日もあった。
出来るだけ一人一人の物語に耳を傾け、その琴線に少しでも触れる講義を心掛けたいと思いつつ期待に応えられなかったという想いを他の教員と私は共有する。
やはり互いに旅人であろう。旅とはそれぞれが己の信ずる自分に出会うためにするものであり、同時に中島みゆきがいうように「人間好きになりたいために旅を続け」てゆくものである。
ここにきて私は、アンナ・アフマトーワと工藤正広の合作といってよいこの白き冬の詩に心ひかれる。
白き冬とは、切実な人間関係をくぐるということであり、自分と向き合う孤独の季節であろう。その冬を愛さずに春はない。
でも、この憂い、満ち足りた春は彼方であろうか。成熟の代償の憂い。ごきげんよう。
コラム No.015 2008年度卒業生に愛をこめて~part.Ⅰ
「存在の耐えられない軽さ」を超えて
それは妙な小説で、また妙な映画でもあった。
「存在の耐えられない軽さ」というミラン・フンデラの書いた小説は、1968年、所在なく昨日の不安から逃れようと本と映画と盛り場を往き来する私をそのあまりにも似つかわしいタイトルと内容で打ちのめした。
ソ連軍を中心とする軍隊によるチェコスロバキアの「プラハの春」の弾圧を背景に、映画ではダニエル・ディ・ルイス紛する脳科医トマーシュがひんやりとした表情で情事を繰り返す話で、決して時代の主流になれない存在の軽さに耐えている日常が書かれている。私はそんな情事はなかったがあの頃の心象風景を思うとき、無名で金がなく、しかも不自由と考える自己の日常を今もその頃の音楽を聴いたときなど身震いしながら考えるときがある。
君達は今、100年に一度しかないとも言われる経済不況の中で卒業してゆく。その中で主流になろうと泳ごうとすれば、否応なくプロレタリア化した自分の存在の軽さを意識せざるをえないだろう。しかし時代はもっと文明史的大転換の中にある。豊かさ=進歩・発展の等式が崩れつつある。
名もなく、小さな花々とユーモアの心が起りつつある。そう、ドジでのろまであっても他者の傷みを共感し連帯の心根を植えてゆこうとすれば大丈夫だと思う。

